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2010年10月18日 (月)

再び検察審査会の人権侵害について

 今回、検察審査会は小沢氏に対して強制起訴を議決したが、素人の私から見て、その

公表された審査会の議決書の内容は、どうも腑に落ちないものがある。

第一の理由は第一回目には審査対象となされなかった「4億円の金の動き」事案が追加さ

れ、審査対象が勝手に拡大され、それに言及されていること。

これって相手に背中から不意打ちを食らわすものだ。フェアじゃない。

第二に誰が見ても起訴相当と思える新しい証拠を審査会が見出したならばともかく、その

提示がないこと。

 差戻された検察庁は二度とも刑事事件たりえないと判断し不起訴処分を下した。

これは法と証拠に基づく(疑わしいだけでは、起訴できないという)専門家の判断であり、

法治国家として、とりわけ基本的人権の制限にかかわる刑事裁判には慎重であるべき

だという法の要請が働いていると思われる。

このような見方からすれば、検察審査会の一連の判断はあまりにもアバウトであり、

「疑わしければ起訴せよ」の姿勢で、あるいは最初から「起訴ありき」で審議が行われた

のではないかと疑わざるを得ない。

証拠の見当たらない強制起訴の議決を、もっともらしく見せるために、取り繕うために(嫌

疑をことさら強調するために)審査対象を追加したとしか思えない。

 小沢一郎というネームをとり、政治家というラベルを外して、一市民として一人の人間と

して彼を捉えたときどうだろう。

このようなアバウトな理由で検察審査会は市民を強制起訴の対象にしうるのであうか。

検察審査会が主権者たる国民の司法参加という理由で検察庁に優越し、国民の声、国

民の判断として尊重されるものであるならば、審査会に要求されるのは検察庁以上の

法に基づく判断であり、人権に対する深い配慮ではないだろうか。

 「裁判で決まるまでは有罪でも無罪でもない」という人もいるが、そういう人は一度、刑事

裁判の被告人になってみるといい。

しかも、今回のような検察審査会の強制起訴のように・・・審査対象以外の事案が考慮さ

れ、新しい証拠の提示も無く・・・疑わしいという理由だけで起訴された被告人に。

三審制が保証されてる?それは何十年も続くということをも意味してるのだ。

証拠のない嫌疑だけで起訴された延々と続く裁判に耐えられるかな。

最終的に無罪になるとしても。

 何度でも言うが有罪と認定できる十分な証拠のない、嫌疑だけの起訴は冤罪の温床な

のだ。人権侵害のなにものでもないのだ。

 今回の小沢氏に対する検察審査会のありようは私には国民を代表した良識を反映した

ものというより、中世の暗黒裁判の諮問委員会の様相を呈しているようにしか見えない。

今回の審査会の議決に大変危険なものを感じるのは私一人だろうか。

世論は流れるが、決して見逃してはいけないものがあると思う。

それは歴史がその苦い経験から我々に教訓として与えたものだ。

それは

一人の基本的人権の侵害を見逃すな、見逃せば国民全体に広がるという警告だ

2010年10月12日 (火)

検察審査会の人権侵害について

第二回目の検察審査会の小沢氏に対する強制起訴決定の判断がなされた。

この件に関して一市民として納得できないものを感じ、筆をとった。

我々は市民として、仮に被疑者、被告人そして受刑者となったとしても、

その基本的人権は最大限に保障される権利を有している。

特に人権に最大の制限を加える結果となる刑事裁判について、

我々国民は適正な手続きと法と証拠に基づいてのみ裁かれるという法の支配の原則にの

っとった刑事手続きを保障されてるがゆえに、人権に加えられる強制的な制限や剥奪の

正当性が担保されると考える。

この法による支配の原則は捜査当局の証拠収集手続から被疑者の身柄拘束、そして被

告人となろうとも、そして仮に有罪と判断され、収監されたとしても一貫して保障されなけ

ればならない具体的な人権の内容の一つである。

つい最近の厚生局長木村さん事件の当局による押収資料捏造事件は法による支配の原

則を侵したものとして犯罪となり検察官が逮捕された。

この原則を侵すこと自体、犯罪である。

その意味では検察庁が二回とも小沢氏を無罪(起訴しない)と判断したのは

正当であった。

疑わしいだけで、証拠がないところでは、人を処罰対象としてはならないのだ。

無罪なのだ。

「疑わしきは被告人の利益に」

この黄金律は過去、如何に法と証拠に基づかない裁判が多くの無実の人を罪に陥れてき

たか、その反省から歴史が与えた教訓なのだ。

では、今回の検察審査会の小沢氏の強制起訴決定は、はたして、法による支配の原則に

照らしてその正当性は担保されたものといえるだろうか?

1:犯罪構成要件を満たす新たな証拠が審査会において発見されたのか?

2:小沢氏の度重なる任意聴取調書に審査会は矛盾点を見出したのか?

公表された文書を読む限り、二点とも答えはNoである。

それで、あえて強制起訴に決定した理由はなんだろう?

起訴する理由がまったく見当たらない。

これだけでも法による支配の原則を逸脱し、犯罪であるといえる。

さらに決定理由書をよく読むと、驚くべきことに審査会の審査対象とすべき「期日のずれ」

の案件に審査対象外の別件の「4億円の金の動き」の事案に言及がなされていることであ

る。審査案件の範囲が別の案件にまで及び、嫌疑が拡大強化されている。

証拠もないままに・・・。

そして、

その結論が「疑わしきは被告人の利益に」ではなく 「疑わしいから起訴せよ」である。

この結論は照らすべき法も証拠もなく、予断と偏見に満ちたあの中世の魔女裁判と同じで

ある。

「疑わしい」これを主たる理由として起訴される・・・そんなことがこの日本であっていいの

か。法の支配の原則が公権力によって明確に侵害されている。

検察審査会の今回の小沢氏の強制起訴の決定はそれ自体犯罪である。

法の支配の原則に違反してるがゆえに検察審査会の小沢氏強制起訴の決定は

無効である。小沢氏に対して救済措置の手続きが至急開始される必要がある。

このような前例を作ってはいけない。

しかし、このような公権力による犯罪を社会の警鐘足るべきマスコミは何故見逃

すのか?

海外の人権侵害の報道はしても、わが国で現に行われてる公権力による人権侵害に

何故気がつかないのか?

目をつぶったままなのか?

「一人にすることは、万人にすることである」という言葉があるが

一人の人権侵害を見逃せば、万人の人権を守れなくなる。

かつて、松本サリン事件で無関係な一市民が被疑者扱いされ、冤罪事件と発展した

恐るべき事件があった。当時、マスコミは証拠もないのに彼を犯人扱いした。

マスコミはあの事件を反省し教訓としたのではなかったのか?

また、同じ道を歩もうとしている。